金の小魚
- TIAD6009

- 1月6日
- 読了時間: 5分
更新日:1月17日
仕事帰りに私が区民プールに通うようになった理由は、勤務地のすぐ裏に大きな区民プールがあったからだった。そこは建て替えたばかりで、清潔で整備されており、何より四方に大きな窓がデザインされているのが気に入っていた。駐輪場に自転車を停めて、プールを利用する前に時々その窓から水面を眺めた。けなげに泳ぐ人たちから幾重も生まれる緩やかな弧にいくつもの窓から一気に流れ込む光線がぶつかって金の小魚が跳ねる。それはどんな心持ちの私も平らにする数少ない瞬間だった。50mプールは7コースがあり、私はいつも一番手前の三コース分に設置されているフリースペースにいた。隣りにはウォーキング専用のレーンがあり、その奥には手前から奥に向かって泳ぐレーン、その奥の奥には手前に戻ってくるレーンがあった。フリースペースにはそのどれにも属したくない、もしくは属することができない面々がいて、いつ行っても混沌としていて、そのくせ自由だった。コースの中央で輪になって飛び跳ねている子供たちや泳ぎきらずになぜだか中途半端なところでUターンを繰り返す人もいる。太い脚、白い脚、よろよろと進む脚、平泳ぎをしていたかと思うと背泳ぎを始める脚、ビート板をはさんだ脚、はさむのをやめた脚。プールの底を沈潜しながら抜いていく人だっている。とにかく多様化を実感したければ、区民プールのフリースペースで泳ぐといい。机上の空論より、よっぽど実感できる。ただ、その存在をその存在として受け入れる。多様化はいつだってそうやって始まるんだから。先日、こんなことがあったんだ。いつものように水中で行く先を確認しながら慎重に泳ぎだした。最初の500mは、平泳ぎと決めている。最近は肺活量を鍛えるために、二回かいて一回呼吸をしているわけなのだけど、これが結構つらい。すると、ほぼ中間に岩のように動かない仁王が堂々と海パンでいるのを見た。仁王らしく脚を充分すぎるほど広げて、がんとして動かない。何をしているのか。それは聞かない限り決し知り得ない。しかし聞くには、50mを決して立たない。立つなら壁にタッチしたタイミングという掟を破るしかない。いやそこまで仁王に興味があるわけではない。正直、どうでもいい。そこで気を散らすために、先日子供たちに教えたばかりの「夢十夜 第六夜」の仁王像を思い出しながら、作中に出てくる明治の無教養な車夫が言った「なんだってえますぜ」を心の中でつぶやいた。しかし、間違いなくこの例えは不謹慎だ。先に謝っておきます。ごめんなさい。えっと、誰に謝ったのか、対象がよくわからないが、プールの中で突っ立っている太っ腹男性を仁王様に例えるのは、どうしたって突拍子もない。しかしだ。どんなに周りが迷惑そうであっても我関せず、がんとして動かぬ様は、やはり仁王様を彷彿とさせるのだ。私の範疇ではないという点において。まあ、とにかくそれを右によけたなら、その先にはよろよろとウォーキングをする高齢者がいる。では左はというと、フリースペースで得意げにばしゃんばしゃんと派手な水しぶきをあげながらバタフライでこちらに向かってくる男がいる。これは判断に迷う。もう時間がない。途中で立つのは絶対に避けたい。あーもう、そもそも仁王はなぜそこから動かないのか。そしてなぜフリースペースでバタフライなのか。立派に泳げるのであれば、水泳コースにいったらよろしいではないか。仕方ない。まるで翼をたたんで湖畔でひと休みをするシラサギのように、平泳ぎの両腕もすっと畳み、そうして脚だけでなんとかご高齢と仁王の間をやり過ごした。ところが! ほっとしたのもつかの間、えっと自分決してあなたにこのレーンは譲りませんよと言う勢いで真正面から派手なクロールで向かってくる馬鹿を発見。失礼。馬鹿だなんて。でも海パン一枚だけを身に纏って、ほぼ生まれたままの姿なのに、まあ強気。ひとっつも譲れないなんて、よっぽど普段は譲らされているのでしょうね。もしくは、馬鹿か。そのどっちかだと思いません? まあ、私は夫にも子供たちにも、食べたいもの、見たいお店、ソファのベスポジ、全部全部、何年も何年も譲ってきましたんでね。まあ余裕で今回も譲れますけどねと、心の中で侮蔑と優越を繰り返し、またまた進路を変更する。区民プールのフリースペースなんて、そんなもの。本当に、いろんな人がいる。
勤務先は、カトリックの私立の女子高だから、毎日2回決まった時間に全員でお祈りをする。無宗教のくせに、その時間がとても好きだった。冠をかぶった赤ん坊のキリスト様を愛おしそうに抱くマリア様の純真さを心から尊敬していた。同じ女性として。母として。「父と子と聖霊の御名において」とつぶやきながら、毎日マリア様にお祈りをする。「どうかもうこれ以上、悪いことが起きませんように」って。
先日の職員会で、始まりの挨拶で壇上の校長先生がまるで私にだけ話しかけるような親し気な調子でこう言った。「自由とはね、好き勝手にふるまうことではないんですね。他者や社会を大切にしながら、自分で自分の進む道を選びとる力を持つということ。それが自由であり、選択なのです」って。私はそれを聞きながら、金の小魚を思ったの。どんなに秩序だてて、まっすぐに、安全に泳げるレーンがあったとしても、行く手を阻む何かなんてひとつもなかったとしても、追い立てられるように列にって泳ぐ散文的な世界にはいたくない。結局、私は今日もまた金の小魚が飛び跳ねるフリースペースに行って、仁王もどきを避けながら、黙ってクロールおじさんに進路を譲るだろう。何といっても自由を謳歌できるんだから。🐠














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